ギドン・クレーメル



サントリーホール スペシャルステージ ギドン・クレーメルを聴いてまいりました。

今宵のプログラムは、

J.S.バッハ無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 BWV1003
グバイドゥーリナ: リジョイス(喜び)!−ヴァイオリンとチェロのための
イザイ: 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第5番 ト長調 op.27-5
バルトーク無伴奏ヴァイオリン・ソナタ Sz117

今回、クレーメルサントリーホールでの公演は4夜あり、どれを聴きに行こうか迷いに迷って選んだのが今夜のほとんどが無伴奏というプログラム。これが正解でした。

いやはや。ギドン・クレーメル、只者ではありません。

最初のバッハは正直申し上げて、「???」だったのですよ。想像していたクレーメルの音とはぜんぜん違い、優しく繊細な音色で、しかもなんだか脂が抜けてしまっている、という印象。

でも、グバイドゥーリナで、「んん?」。イザイで「おおお!」、バルトークで「なるほど!凄い、凄過ぎ。」

アンコールの、

シルヴェストロフ:セレナーデ
ロックバーク:カプリス変奏曲

では、「良くわかりました、もう勘弁して下さい。」とこうべを垂れたくなったほど。

なるほど。バッハのソナタのあのつや消しの音は、1641年製のニコロ・アマティのせいでもなく、況してやテクニックの問題などでもなく、クレーメルがああ弾きたかったから弾いたんだわ。

それぞれの曲に対しての彼のイメージが、手触りとして、質感として、場所として、時代として、強く伝わってくる。一人の人間が、たった一台の同じバイオリンで奏でているとはとても思えない、ありとあらゆる音色が耳に届くのです。人間エフェクター

これまで考えておりましたバイオリンという楽器の可能性を遥かに超えた演奏を聴いて、魂消てしまった、というのが今の正直な感想です。

この世に存在するありとあらゆる物、事、事象はヴァイオリン一台で具現化できるんじゃない。いえ、この世だけではなく、別の世界、存在しない物、さえ表現することができるんじゃない。

私がこれまで考えていた上手なヴァイオリン奏者の、のびやかで艶があり、時に力強く、時に心を蕩かすような美しい音色。クレーメルももちろん、そういう音色も簡単に出すことができるのですが、そんなのはあたりまえ。

ざらっとした古いレンガの手触り、朽ち果てた城址、中世の修道院の回廊、人の話し声、風の音、鳥の囀り、漂う靄、揺らめく光、空間の歪み、物の軋み、色彩、味わい、匂い、湿度までが感じられる。色々な所へ連れて行ってもらいました。色々な時代に誘われました。時として異次元に引き込まれるように感じられることも。

そんな凄い演奏でありながら、クレーメルはどの曲を弾く時でも肩に力の入っていないラフな様子。違う。あまりに私がこれまで聴いてきたヴァイオリニストと違います。

全てのプログラムを聴き終えて、思い浮かびましたのが、マルグリット・ユルスナール『東方綺譚』の中の『老絵師の行方』。最後は自らの描いた絵の中に永久に姿を消してしまった汪佛。

ギドン・クレーメルも最後は自分が奏でる音の世界の中に、入り込んで消えてしまうのではないか。そんな姿を思わず思い浮かべてしまうほど、今日耳にし、そして見たのは、他に類をみないヴァイオリニストの姿でした。