3月11日



忘れないうちに。
揺れを感じた時、会社で仕事中でした。8階建てのビルの6階。大きな棚からなるべく離れた所で柱につかまり体を支え、収まるのを待ちますが揺れはどんどん激しくなり、「えー、長過ぎ。もういい加減収まって。このままビルが崩れたら死んでしまうのかしら」、などと考えておりましたところ、弟の「少し収まったから今のうちに外に出るよ!」との指示で非常階段で避難することに。
外に出るとすでに多くの人達がビルから出てきておりまして、周囲のビルから看板やガラスなどが落ちてきては怖いので不安気に上を見上げながら立ち尽くしています。慌てておりましたので何も持たずに手ぶら。別のスタッフはしっかりバッグも携帯も持っておりまして、落ち着いているわあ、と感心。いくつかの大きな余震のあと、少し落ち着いたところで一度事務所に戻ると、棚から物が落ち、パーツは飛び散り、花瓶や飾りが割れ酷い状態。とりあえず荷物とコートを持ち再度外へ。1時間ほど様子をみたところで、もうこの日はオフィスを閉め、全員帰宅することに決定。私は徒歩を迷いましたが、会社の自転車を借りて帰ることに。
千代田区から港区まで。以前も一度走ったことのある道ですので、地図は頭に入っております。交通機関が全てストップしておりましたので、大手町のオフィス街を、ある人は手にヘルメットを持ち、ある人は地図を確認しながら、日本人も外国人も、もの凄い数の人が皆静かに、黙々と目的地に向かって歩いています。とても不思議な光景。
50分ほどかけて無事マンションに到着。娘には連絡がつかず、ちょうどお迎えの時間でしたので、とりあえず孫一の保育園へ。ほとんどの保護者がまだ迎えにこれておらず、いつもよりもずっと多い人数の子供たちが、帽子をかぶり、ジャンパーを着て、ヘルメット姿の先生に守られてお迎えを待っておりました。少し不安げな表情の孫の表情が私の姿を見てぱっと緩み、両手をさし出して駆け寄ってまいります。「良かったー」、と抱きしめながら涙ぐみそうに。
孫一を連れて娘のマンションへ。16階なのですがエレベーターは動かず。階段を休み休み上がります。踊り場の窓から見える東京タワーはいつもより背が低く見えて、上が折れちゃったのかしら、と心配に。
部屋に入ると家具の位置が変わり、かなりの揺れだったよう。電気、水道はOK。電気で作れるものをと夕食の用意をしておりましたおころ、マンションの管理会社から「ガスも使えるようになりました」との連絡が。そうこうするうち、下の孫を迎えに行っていた娘たちも戻ってまいりました。かなり酷い揺れだったようで、娘の顔色は真っ青、余震のたびに手が冷たくなり、震えがきてしまうとのこと。
夕食とお風呂の手伝いを済ませ帰宅。私の部屋の被害は、くるみ割り人形の帽子に打痕、ネフのブロック破損、煙り出し人形のパーツ取れ、程度。ベッドに入るも、余震と緊急地震速報のエリアメールで目が覚め、浅い眠り。
弟の車はタワーパーキングから出せず、母とタクシーで帰ろうと思ったがやはりつかまらず、5時間歩いて都内のお嫁さんの実家へ。そこで車を借りて、渋滞の中3時間半かけてようやく船橋の家に帰ることができたとのこと。父も無事。大船渡の叔母一家、仙台にいた従兄弟も知人も無事とのこと。まずは安心。