人形浄瑠璃



文楽人形浄瑠璃は同じ物、そしてどちらも元は人の名前なのだ、という事を教えていただきました。

鎌倉時代、愛知県の矢作に住む長者の屋敷に浄瑠璃という美しい娘がいました。奥州下りの途中、この長者の屋敷に逗留した源義経は、浄瑠璃と恋に落ちます。しかし義経は源氏再興の為、先を急ぐ身。必ず戻ってくると約束をし、母親の形見の名笛「薄墨」を浄瑠璃の元に残して旅立ってしまいます。いつまで待っても戻らぬ義経を追って浄瑠璃は奥州へ旅立ちますが、その旅の途中で命を落としてしまう、という悲しいお話だそうです。

この浄瑠璃の物語は、独特の節回しをつけて語られ、浄瑠璃節として歌い継がれ、人形と結びつくことで人形浄瑠璃として発展をとげていきました。

人形浄瑠璃の様式を完成させたといわれる、近松門左衛門竹本義太夫の時代から100年ほど経った頃、浄瑠璃の興行師で太夫でもあった植村文楽軒という淡路島出身の人物が大阪で人形浄瑠璃の興業を始めます。この後、二代目文楽軒は常打ちの人形浄瑠璃小屋で興行。これが人気を集めて大当たりします。文楽軒の芝居、文楽軒の人形浄瑠璃から次第に「文楽」という言葉が広まり、人形浄瑠璃そのものを指す言葉となっていったようです。

少し、お勉強させていただきました。